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トルストイが『戦争と平和』に着手したのは一八六四年、三十六歳の時で、最終的に完結したのは一八六九年、四十一歳の時であるとされている。その作品の出現が当時のロシヤ国内に、つづいてヨーロッパ各地に惹(ひ)き起こした波紋については、その文献はまさに汗牛充棟も啻(ただ)ならぬ有様である。翻ってこの作品と我が国との関係を見れば、その冒頭の一部が一八八六年『(泣花怨柳)北欧血戦余塵(ほくおうけっせんよじん)』と題して森體なる人物によって出版されて以来、島村抱月、馬場孤蝶(こちょう)、山口徹、相馬御風(ぎょふう)等の、恐らく英語からの重訳、つづいて昇曙夢(のぼるしょむ)・米川正夫共訳(一九一四年)のロシヤ語からの翻訳にはじまり、いわゆるロシヤ文学翻訳御三家(米川正夫、中村白葉、原久一郎)の活躍がつづき、つづいて御三家第二世の、更には新人の翻訳が現われて今日に至っているようである。今回の私の『戦争と平和』出版を取材して、これをロシヤ語圏向けに放送してくれたNHK国際放送アジヤ部の放送によれば(ローザ・姉川女史にその流麗なロシヤ語で放送して戴(いただ)いたが)今回の私のものは、日本における第十五番目の『戦争と平和』になるとのことである。『戦争と平和』一つをとってみても、日本民族はトルストイと切っても切れない、百年有余にわたる縁(えにし)で結ばれているのである。
ところで私と『戦争と平和』との出会いは、今を去る四十七年前、私が大学一年の時だった。旧制高校時代のはじめ、『人は何で生きるか』『イワンの馬鹿』等でトルストイとめぐり合った私は、その後『アンナ・カレーニナ』を読んで感動のあまり、ロシヤ語の学習を固く決意したが、旧制中学時代から知っていた幻の超大作『戦争と平和』の邦訳をいよいよ手にしたのは東大英文科一年の時だった。『アンナ・カレーニナ』から受けた感銘があまりに強かったため、なんぼトルストイでもあんな傑作をざらに書ける筈(はず)はないという気がしていて、『戦争と平和』への期待はそう大きくなかったが、案に相違してこの作品がアンナにも劣らぬ強烈な感動を私に呼び起こした時、 畢竟(ひっきょう)自分がトルストイの全ての作品に感動するよう運命づけられていることを私は思い知ったのである。
というわけで、大学時代の私は、本職の英語はなげやりにして、ひたすらロシヤ語の学習に没頭し、辞書を片手にまず第一に『アンナ・カレーニナ』に読み耽(ふけ)った。つづいて大学に籍を置いたまま出かけて行ったハルビン(当時の満洲国の)で、いよいよこの『戦争と平和』の原書に取り組むことになったのである。あの、ハルビンは馬家溝(マジャグウ)の、セミョーン・イワーヌイッチ・マースレニコフ氏宅に下宿していた頃のことを思えば、不思議に仏軍の捕虜になったピエールの運命にはらはらしながら『戦争と平和』に読み耽っている自分の姿が瞼(まぶた)に浮かんでくる。四十数年後、自らこの大作の翻訳を手がけることになろうとは、神ならぬ身の知る由もなかったのである。
私がトルストイの読者であるばかりでなく、どうしてもその翻訳者になりたいと思い立ったのは、今から十九年前のことだった。そのきっかけについては、私はこれまで度々新聞や雑誌に発表したので、ここで繰り返すことを避けるけれども、とにかく、出版の目当てなど全然ないのに、私はトルストイの作品をどうしても翻訳せずにいられなくて、次々とノートに訳出して行ったのである。ただ私は、どの作品に取りかかる時も、果たして自分は生あるうちにこの作の翻訳を完成するであろうか?という疑念につき纏(まと)われた。トルストイの作品は、そのどれを取っても私にはこよなく貴重であるだけに、折角着手した作品の翻訳を未完成に終わらせることは何より恐ろしかった。それ故自然私は、短いものから短いものからと翻訳の筆を染めて行ったのである。従って『戦争と平和』の翻訳は、なかなか私の日程にのぼらなかったのであるが、さりとてこの作品のことが念頭を去ることは決してなかったし、折にふれて読み返してもいた。一九六五年、ある雑誌によせた〈一巻の書――『戦争と平和』に寄せて〉という私の文章を読み返すと、その頃ちょうど私が『戦争と平和』に読み耽っている時、故阿部知二氏が朝日新聞”一冊の本”の欄に、この作品を取り上げられたので大いに感動した経緯を述べている。阿部氏の言葉を少し引用させて戴くとしよう。
《たとえば誰しもがいう、アンドレイ公爵がアウステルリッツで負傷して空を仰ぐところ、また彼がロストフ家を訪れて、六月の月夜にナターシャの声をきくところなど、――そういうところは、たとえ万人が何万度「いい、いい」というのを聞いても、それならば自分は無視してやろう、などという気を決しておこさせない。トルストイの力の大きさを思うべきである。》――《その後十年ばかりの間隔をおきながら、二度――こんどは勿論邦訳によって――読んだが、やっぱり次第に、この中の人物、大小無数とも言うべき諸人物の生き生きとした描出に驚異を感ずることが深くなったのは必然であった。このことには、どれほど言葉をついやしても尽きないであろう。》――《モスクワの旧邸も、博物館のようになっている。一室に熊の皮が敷いてあり、その熊が森で若いトルストイを組み伏せ、もし一人の若い猟夫がかけつけなかったとすれば、生命もどうなっていたか分からなかったという説明であった。そうすれば『戦争と平和』は生まれなかったことになるが、この本を持たぬ人類というものを考えていいであろうか?》
この最後の結びは、ことのほか私を感動させた。私にも『戦争と平和』を持たぬ人類を想像することは不可能だからである。カントは、人間にはどんな想像も可能であるが、”我在らず”という想像だけは不可能であると言っているが、私にとって”『戦争と平和』在らず”という想像は、”我在らず”という想像同様に不可能である。
その頃私が、一体どんな感慨で『戦争と平和』に読み耽っていたかについては、私自身の文章に語らせてもらいたい。
《・・・・・・過日雨を幸い朝から読み耽っているうち、公爵令嬢マーリヤが、その、生毛(うぶげ)のはえた可愛い上唇のリーザ夫人の遺児(つまり彼女の甥)のレッスンを見てやりながら、覚えが悪いといって罰に部屋の隅に立たせ、あとで可哀そうになり、”私のこんなにおこりっぽいところは、まるでパパと一緒だわ”と思って、悲しくなって泣き出すところを読んだ。彼女が泣き出すと、こんどはニコライが叔母さまが可哀そうになって、罰を忘れてのこのことマーリヤに近寄り、彼女の肩に手をかけて反対に慰めはじめるのである。そこを読みながら、こんどは私が泣き出してしまった。その時私は完全にマーリヤとニコライの世界にはいり込んでいて、三人で一緒に泣いたと言ってもよかったのである。ああ、このあまり器量のよくない、それでも大へん美しい眼と黄金の心(ゾロトーエ・セルツェ)を持ったマーリヤという女性は、何度私を泣かせたらいいのだろう!》
漱石は明治四十年(一九〇七年)四月、東京美術学校で行なった『文藝の哲学的基礎』という講演で、
「発達した理想と、完全な技巧と合した時に、文藝は極致に達します。文藝が極致に達した時に、之に接するものは、もし之に接し得るだけの機縁が熟して居れば、環元的感化を受けます。此の環元的感化は、文藝が吾人に与へ得る至大至高の感化であります。機縁が熟すといふ意味は、この極致文藝の上にあらはれたる理想と、自己の理想とが契合する場合か、もしくは之に引きつけられたる自己の理想が、新しき点に於て、深き点に於て、もしくは廣き点に於て、啓発を受くる刹那に大悟する場合を云ふのであります。縁なき衆生は度し難しとは、単に仏法のみで言ふことではありません。段違ひの理想を有してゐるものは、感化してやりたくても、感化を受けたくても、到底どうする事も出来ません。
環元的感化といふ字が少々妙だから、御分りにならんかと思ひます。之を説明すると、かう云ふ意味になります。文藝家は今申す通り、自己の修養し得た理想を言語とか色彩とかの方便であらはすので、其(その)現はされる理想は、ある種の意識が、ある種の連続をなすのを、其儘に写し出したものに過ぎません。だから之に対して享楽の境(さかい)に達すると云ふ意味は、文藝家のあらはした意識の連続に随伴すると云ふ事になります。だから我々の意識の連続が、文藝家の意識の連続とある度まで一致しなければ、享楽と云ふ事は行はれる筈(はず)がありません。所謂(いわゆる)環元的感化とは、此一致の極度に於て始めて起る現象であります。云云」
と言っているが、『戦争と平和』はいつも私に、環元的感化を与えてやまなかった。阿部知二氏の「やはりしだいに、このなかの人物、大小無数ともいうべき諸人物の生き生きした描出に驚異を感ずることがいよいよ深くなったのは当然であった。このことには、どれ程言葉をついやしても尽きないであろう」という言葉そのままである。まったくどれほど言葉をついやしても尽きはしない。お手上げである。芥川龍之介などもこの作品をよんで、”まったくかなわない。こんな作品にくらべれば、日本の作家などはるかにまだまだだ。漱石先生すらまだまだだと思う”といった意味の述懐をしているが、芥川にとっては漱石先生は神にもひとしかった筈であるのに、その彼にしてこの言葉があるのである。私も漱石を熱愛することにかけては、いささかも人後に落ちるものではない。その何よりの証拠には、私の四人の子供のうち、三人までは漱石にちなんだ名前をもらっているのだ。長女のひな子は、漱石の、幼くして死んだ五女の名前。ひな子が死んだ時に漱石が書いた日記を読んで感激のあまりだった。次女は楠緒(なお)、明治の閨秀(けいしゅう)詩人で、漱石の恋人に擬せられているとかの、大塚楠緒子(なおこ)からもらった。彼女が死んだ時漱石は、その墓前に
《あるほどの、菊投げ入れよ、棺の中》
という悼句を捧げている。長男の漱(すすぐ)は説明を要しないであろう。親の恥を漱いでくれるようにとの寓意(ぐうい)と、成人したら漱石の作品に親しんでもらいたいという願いがこめられていたことだけを言おう。以上をもってしても、私の漱石への傾倒ぶりを想像していただけると思うのだが、やっぱり『戦争と平和』を持ち出されると、芥川同様、漱石先生もまだまだだと感ぜざるを得ないのである。
要するに『戦争と平和』とは、私にとってそんな作品である。トルストイのどの作品の中にも、ある意味で全トルストイが含まれていると私には映ずるのであるが、『戦争と平和』にもある意味で全トルストイがある。ピエールやアンドレイやニコライ、ナターシャやマーリヤやソーニャなどは、私にとって実在の人物以上に実在的存在なのだ。なぜなら彼ら一人一人の奥にトルストイがいるからである。
要するに大学入学当初、初めて邦訳で『戦争と平和』に接した私は、その後この作品との精神の絆(きずな)を絶やしたことは瞬時もなかったと言っていい。ただ前にのべた理由のため、現実にその翻訳に取り組んだのは『復活』よりも『アンナ・カレーニナ』よりもおそく、出版の話が持ち上がった頃まだ約七パーセントを残していたくらいだった。勿論この作品の翻訳のことは、ずっと前から気にかかっていた。前記の〈一巻の書――『戦争と平和』に寄せて〉という私の文章を読んだ知人が私に向かって、「あなたはこれだけの思いを『戦争と平和』にそそがれているのであれば、何をおいても真っ先にそれを翻訳すべきではありませんか!」と言ったことも思い出すし、次女の婿がある人の翻訳でこの作品を読んで感涙にむせんだ由を手紙で知らせて来た長男が《お義兄(にい)さんをそれ程感激させた作品を、是非お父さんの手で翻訳して戴きたいと思う》と書いてよこしたことも思い出す。又他人(ひと)から言われなくとも、いつの日か『戦争と平和』をこの手で翻訳したいという願いが、私の胸から去ったことがあるであろうか! トルストイ自身嘗(かつ)て《天もし我に齢(よわい)を藉(か)すならば、未だ嘗て何人(なにびと)も物しなかったようなボロヂノ戦記を物してみせる》と言い、結局天が齢を藉して、『戦争と平和』が完結した時、《偽りの謙遜(けんそん)なしに言えば、これはホーマーの『イリヤッド』にも比肩すべきである》と言ったというが、私も心の奥深く、常に《天もし我に齢を藉すならば、未だ嘗て何人(なにびと)も果たさなかった程トルストイの息吹きの伝わる『戦争と平和』の翻訳を物してみせる》と思いつづけていたのである。
結局私は一九七五年二月十五日、満六十二歳の誕生日の前日から『戦争と平和』の翻訳に取りかかることになったが、その直前の二月一日に『アンナ・カレーニナ』を訳了している。その日の日記は、私が『アンナ・カレーニナ』を訳了して、いよいよ『戦争と平和』にかかる覚悟をした時の心理状態、更には翻訳に対する私の考え方が出ていると思うので、引用させてもらうことにしよう。
《二月一日――『アンナ・カレーニナ』訳了。今日午後七時二十三分である。この十六日、私の六十二歳の誕生日が一応目標だったから、ラスト・スパートがきいたわけ。
さきに第七篇アンナの自殺までを訳了した時、アンナが哀れで胸がつまり、涙がこぼれた。訳筆をしばらくストップさせて、アンナの死刑執行を延期したい感情さえ覚えた。そして、アンナに対するトルストイの憐愍(れんびん)は、マグダラのマリヤに対するイエスの憐愍と同質であることを犇(ひし)と感じた。
今、全篇を終わるに当たっても、自分の〈アンナ・カレーニナ時代〉を無造作に終わらせたくないような、又ぞろ暫(しばら)く訳筆をストップさせておきたいような感慨を覚えた。しかし私には、ひきつづき〈戦争と平和時代〉が待っている。一応推敲(すいこう)に名を藉りて、自分の訳でこの作品をゆっくり読み返すであろうが、それが済めば男らしくアンナと別れて、『戦争と平和』の世界に飛び込まねばならない。今私の中には、『戦争と平和』完訳の自信と勇気がもりもり湧いている。節制と精進によって、「やわかやり遂げいでおくべき!」というのが現在の心境である。
それにしても、一九七三年三月六日の夜訳筆を起こして、一九七五年二月一日の夜訳了、その間一年十カ月と二十五日が私の〈アンナ・カレーニナ時代〉だった。長いようでもあれば、夢のように短かかったようでもある。その間アンナはまさに私の生き甲斐(がい)だった。いつ、どこで、何をしている場合も、私の書斎にはアンナが待っているという思いがあった。仕事に没入することで、我(が)を離れる喜びをアンナは私に与えてくれた。アンナもウロンスキイもレーウィンもキティも、私にとって実在の人物以上の実在の人物だった。こうした実在こそ真の実在であって、単なる物理的実在は虚妄の実在に過ぎないことをあらためて感ぜさせられた。
本多秋五氏は『戦争と平和』を読む前と読んだ後では、人間は変わっているはずだという意味のことを言っていられるが、それはそのまま『アンナ・カレーニナ』に就いても言えることであろう。しかしそれは要するに読書論であるが、翻訳という作業に従事して痛感することは、翻訳者は読むことと生きることとを同時に実践しなければならないということである。よき読者は、作中の人物と共に生きる読者であるという意味では、これ又実践者とも言えようが、翻訳者の場合そこに二重の実践がなければならない。換言すれば、二重に生きなければならない。作中の人物と共に無意識に生きることと、彼等を意識の世界、反省の世界から眺めて生きることと。読書の喜びにひとり浸り切るのではなく、その内容を万人に伝える使命を持つ翻訳者は、原書からいわば無意識に受け取ったものを、もう一度意識の世界で反省し、訳文として再生産しなければならない。
だからして訳者は、登場人物の心を知るために、まず自分の心を知らなければならない。登場人物の心と自分の心をいつも照合させて行かねばならない。ソクラテス流に言えば、まず”汝(なんじ)自らを知”った後、はじめて作中人物を知ることが出来ることを悟らねばならない。
汝自らを知るという作業、換言すれば自分自身を見つめるという作業こそ、本来、人生に於ける最も困難な、最も苦しい作業である。だから広い世間を見渡しても、それをやりたがる人を殆ど見かけない。だけど、翻訳者にとっては、それは conditio sine qua non である。そこに翻訳者にとっての喜びと共に苦しみがあり、二重の実践がある。ほぼ二年にわたる二重の実践を繰り返して今日に至った私の中で、何かが変わらなければ本多氏に対しても申し訳がない。
だが現象的には、やっぱり何も変わらないであろう。
「これからも私は、相変わらず自分の不徳を棚に上げて、他人(ひと)の悪口をついたり、議論をしたり、時と場合の見境いもなく自分の考えを述べたりするであろう。相変わらず私の霊の至聖所と他人との間には障壁が消えないであろう。相変わらず私はお金を欲しがったり、名誉を欲しがったりするであろう。そしてその後で、ほんとに俺はくだらないと言って嘆くであろう。――しかし今や私の生活は、私の生活の全ては、たとえ私の身の上に何が起きようとも、その一瞬一瞬が以前のように無意味でないばかりか、私の努力次第で自らそれに賦与し得る、まごう方なき善の刻印を帯びるであろう」
「 」の部分は、『アンナ・カレーニナ』の結びをなしている、レーウィンの述懐の言葉であるが、私自身そっくりそのまま自分の言葉としたい。》
つづいて二月十五日の日記には、
《……そしていよいよ今日から『戦争と平和』に着手する。前途遼遠の旅立ちである。神よ、祝福を給え!》
とあり、つづいて私の六十二歳の誕生日であり、母の母である塩見スマの命日である二月十六日の日記には
《母から電報
「アンナ・カレニナノホンヤクブジカンリヨウ サラニキヨウノオタンジヨウビオメデトウ コノウエトモニゴゼンカ(御全家)ニセイユウ(聖佑)ユタカナコトヲセツニイノル ハハ」
何といっても母親は有難い。
思えば祖母逝(せい)てちょうど四十年、四十年という歳月の何と夢幻(まぼろし)の如くであることよ! あと四十年したら、もうこの私の肉体は影も形もないであろうに。トルストイの年まで生きて後二十年、せめてあと十年の生命が欲しい。昨日から『戦争と平和』翻訳という千里の道に一歩踏み出しただけの私は、何としても日本で誰一人やったことのないような『戦争と平和』の翻訳が完成したい。今後三年、あるいは四年は、私の〈戦争と平和時代〉となろう。神よ、力を給え!》
結論から先に言えば、私は結局約三年八カ月の〈戦争と平和時代〉の後、一九七八年十月七日午後七時二十四分にこの大作の翻訳を完了したが、その間にも私の身辺にはいろいろなことがあった。ちょうど五十パーセント訳了した時、当時まだお嫁に行っていなかった末娘の須磨子に向かって、「ほら、とうとう『戦争と平和』が半分済んだよ」と言ったら、彼女が、「おめでとう、お父さん!」と言いながら手をさしのべて握手を求め、強く強く私の手を握りしめてくれたのは忘れることの出来ない思い出である。つづいて一九七八年、あたかもトルストイ生誕百五十年の年、私は日刊人吉新聞の正月一日号に、〈お母さん『戦争と平和』の翻訳が終わりましたよ!〉という一文を寄せたが、その中で私は、
《・・・・・・所で私自身、現在『戦争と平和』を翻訳中である。一九七五年二月十五日に開始して、二年十カ月余で全篇のほぼ七十四パーセントを訳出した。今のペースで進めば、後一年あまりでほぼめどがつくと思うが、昨年初頭私の眼を襲った飛蚊(ひぶん)症と、さらでだに寄る年波を考慮に入れる時、そううまく事が運ぶかは疑わしい。しかし我が駕(かご)はもはや回(めぐ)らすべからず、私としては自分の体力と精神力の続く限りがんばるほかはない。・・・・・・・・・・
実は嘗てハルビンで私と同じ頃ロシヤ語を勉強されたO氏が、私と並行して『戦争と平和』を読み、私の訳についての意見をのべようと申し出て戴いたし、更にはO氏夫人も、日本語読者として私の訳文を読み、これ又忌憚(きたん)なき意見を述べましょうとのことである。最終的には勿論私個人の責任による翻訳ではあるけれども、そうした申し出は私にとって貴重な精神的支えとなるであろう。勿論お二人に指摘された誤訳や悪訳は、直ちに改むるに吝(やぶさ)かではないつもりである。”子曰く、過って改めざる、是を過ちと謂(い)う”(論語衛霊公第十五)
一九七七年は息子に嫁をとり、娘を嫁にやりなどで、ごたごたと多忙な年、『戦争と平和』の訳筆渋滞の年だった。一九七八年は午年、私の訳筆も天馬空を行くかの如くでありたいが、どうも覚束ない。もう私の母も数え年九十一歳、この私ももう間もなく満六十五歳、命数は早や数えられている。母が生き永らえていて、その耳許で、「お母さん、とうとう『戦争と平和』の翻訳が終わりましたよ!」と言える日がくればどんなにいいだろう!”然れども我が欲するごとくならずして、汝の欲するごとくなるべし”(マタイ伝第二十六章)》
と書いている。このO氏というのが、ほかならぬ沖津正巳氏で、私の翻訳が世に出るまでの長い長い因果の系列の、いわば最後のしめくくりをして戴いた方なのである。その後氏は、北御門訳トルストイ三部作出版期成会設立のため各方面への活発な活動を展開され、東海大学へ話を持ち込んでいただいて、最終的には一九七八年五月二日、熊本のホテル・サンルートの一室で、東海大学出版会山田渉氏同席のもとに出版が本決まりとなったのである。もしも天が私を沖津氏にめぐり合わせなかったならば、まだまだ私の訳稿は書庫に眠りつづけていたかもしれない。まことにトルストイの好む諺(ことわざ)通り、”人間は勝手なことを考えるが、お決めになるのは神様”なのである。
出版が本決まりになった時、私は急いでそれを母に報告したが、死を数カ月後に控えていた母は、軽く頷きながら、「東海大学? それは至極!」と、いとも古風な言いまわしでその喜びを表現した。その母も、九月十四日にあの世へ旅立った。安らかな臨終だったことと、死顔が美しかったことがせめてもの慰めではあったが、出来れば『戦争と平和』の上巻でも見せてやりたかったのに、と思って私は泣いた。
かくて前記の沖津氏をはじめ、実に数多くの人々の巨大な善意の集積によって、『戦争と平和』上巻は、母の死の三カ月後、一九七八年十二月十五日世に出た。その三日後の十八日、ソ連邦対外友好文化交流団体連合会議長ジナイーダ・ミハイロウナ・クルーグロワ女史や、ポリャンスキイ駐日大使夫妻等まで迎えての、熊本のニュースカイ・ホテルでの出版祝賀会については、中巻の月報で大江捷也(たつや)氏が紹介して下さっているが、私としてもあれは生涯の思い出として残るであろう。あの時私が感謝をこめて行なった、ソ連のお客様方へのロシヤ語の挨拶を、ここに自ら翻訳することを許して戴きたい。
「親愛なるソ連邦並びに駐日ソ連大使館よりのお客様方に、ここに謹んで一言、御挨拶申し上げることをお許し下さい。
私がロシヤ語を話す機会を失って以来今日まで、既に長い長い歳月が流れ去り、ロシヤ語を話すことをすっかり忘れてしまいましたが、皆様が今日私に示して下さった友情に対しては、どうしても拙(つたな)いロシヤ語で、深甚の感謝の情を表明せずにはいられなくなりました。今日皆様がここに御臨席戴いているという事実、この事実こそ、私が長年レフ・ニコラェウィッチ・トルストイの作品の翻訳に従事して来たことに対する最大の報酬だと存じます。皆様方が今日ここ熊本へおいでになって、今回の出版を祝って下さるという事実は、とりも直さず皆様が、今は亡き『戦争と平和』の著者を心から敬愛していられることの、疑うべからざる証左であることを信じて疑いません。もともとトルストイは、お膝もとソ連邦はもとよりですが、それに次いでは日本において、世界のいかなる国においてよりもより多く読まれていると言われております。もしもそうであれば、我々日ソ両国人民はどうして互いに愛し合わないでいられましょう。もし我々両国人民が、心を一つにしてレフ・ニコラェウィッチ・トルストイを愛するならば、我々は互いに愛し合わずにいられないし、互いに親善友好の関係を保たずにはいられないし、更に言えば、互いに手を繋いで、世界の永久平和建設のために努力しないではいられないことを、私は固く固く信ずるものであります。
以上の意味において、今日という日は私にとって生涯最良の日と言っていいでしょう。この素晴らしき日を私にプレゼントして下さったことに対して、重ねて皆様に深甚の感謝の意を表明させて戴きますと共に、皆様の御多幸を衷心より念じ上げる次第でございます。御清聴有難うございました」
壇上でこの挨拶を終わって席にもどった時、クルーグロワ女史やポリャンスキイ大使夫妻をはじめ、七人のソ連の人達が急いで私の所へやって来て、次々に握手を求められたことも、生涯忘れ得ぬ思い出となるであろう。
ところで翻訳の裏話であるが、沖津氏はその約束通り、自ら『戦争と平和』の原書を私と並行して繙き、幾種類もの既訳を丹念に参照し、その軍隊生活時代の、及びその後の豊富な人生経験を生かし、適宜に付すべき註について調査し、更にはNHK国際放送アジヤ部を通じて疑義について国際的協力を取り付け、場合によっては私と烈しいやりとりをし乍(なが)ら、筆舌に尽くせぬ御協力を戴いた。そのために私は多数の誤字や、思い違いや、不適当な表現を改めることが出来たと思う。いわば沖津氏は、〈北御門訳『戦争と平和』〉をよりよきものにするために、その血肉を投じつづけて来られたのである。北御門訳『戦争と平和』が読みつづけられる限り、沖津正巳の名も人々の心から消えることはないであろう。
翻訳に当たり、私は当用漢字の枠には一切捉われず、使いたい漢字はどんどん使った。まず第一に、そうしなければこの私にはトルストイは訳せないからであり、漫画しか読めない大学生が量産されるといった時勢にプロテストしたいからであり、多くの若者が、例えば漱石に歯が立たなくなっている姿を嘆かわしく思っているからである。一九七二年十月十四日の、朝日新聞”標的”欄の文章を紹介しよう。
《近代社会では、あらゆる機能の能率化、簡易化は、社会保持のためにも必要だが、それが行きすぎて、生活の潤いまで失うようでは、何のための能率化・簡易化だか分からない。すべてインスタント化されて、はじめて味気ない生活を嘆くのでは遅すぎる。
戦後の漢字制限も同じ発想から生まれているが、こちらの方は精神の在りようにも係わってくるから事情は深刻だ。
「何もやたらに難しい字を使う必要はないが、又逆に漢字を覚えることはむづかしいとか、煩わしいとか頭から決めてしまうのは間違いだし、ましてそれを『当用漢字』とか称して国が制限するとはもっての外である。そういうことをしたからだんだん人間が努力をしなくなり、イージーになってしまったのである。むづかしい漢字を覚える努力の出来ない人間が、むづかしい数学を解けるわけがないし、歴史や物理を理解するわけがない。」巌谷大四のこの指摘は、戦後教育の盲点をついている。生活のインスタント化がそのまま教育のインスタント化に繋がってはたまらない。インスタント化の持つ非人間的な要素に抵抗するのが、目下教育に負わされた文明史的課題とも言えそうだ。(杢)》
この私も、インスタント化の持つ非人間的要素に徹底的に抵抗したい。潤いのある人生こそ生きるに値する人生であって、潤いのない人生など、生きてみたって仕方がないではないか! もともと潤いを求める心にしか、『戦争と平和』の殿堂は開かれっこないのである。
さもあらばあれ、『戦争と平和』翻訳百年の歴史の中の、第十五番目のそれが、草の根運動の形をとり、国際親善の雰囲気裡にここに誕生した。私はそのことを神に感謝すると共に、なるべく多くの読者を〈私の『戦争と平和』〉の殿堂に迎え入れたいと思う。偽りの謙遜なしに言って、それは読者に、漱石のいわゆる環元的感化を及ぼす筈だと思う。もしもその読者が、すぐれた文学に対して縁なき衆生でさえなければ。もともと『戦争と平和』から読書の喜びを汲み取ることは、読書人としての最高のランクに立つことであって、あるいはそれは、選ばれた〈精神の貴族〉のみに与えられた特権かもしれない。しかしもともと万人は、精神の貴族たり得るし、精神の貴族であるべきではないであろうか? 故阿部知二氏をして、それを持たぬ人類というものを想像していいだろうか?と言わしめたこの作品と、およそ書を読むことの喜びを知る日本の読者とを結ぶ懸け橋の役割を、私のこの翻訳が果たしてくれれば、私としてもこれに過ぐる悦びはない。
最後に、沖津氏、大江氏、宮田氏はじめ、地元で強力な草の根運動を展開して下さった方々や、長年の友情を忝(かたじ)けのうして来た本多秋五先生はじめ、世話人名簿にその御高名を連ねて戴いた諸先生方、ソロバンを無視してその出版に踏切って戴いた東海大学出版会、更には折にふれて御協力をたまわったマスコミ関係の方々、家事多忙の間に原稿用紙への浄書に励んで下さった主婦の方々等々、数え切れない多くの方々に、ここに更(あらた)めて深甚の謝意を表させて戴く次第である。
スト・ラス・ガワリュー・ワーム・スパシーボ。
(一九七九年四月十二日)
書籍でのルビは( )内にひらがな・カタカナで、傍点はアンダーラインで表した。
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